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<京都小6殺害>元アルバイト塾講師に懲役18年
ご遺族の無念は大きいものとは思います。しかし、お察しします、というのは容易ですが、所詮、第三者に当事者の本当の気持ちなど、決してわからぬもの。そういう安っぽい言葉は発しない方がよいのでしょう。ましてや、いまから書く文は、「わからぬ人間にしか書けない」ものだろうと、自分でも思いますし。 なにが言いたいかというと、以前裁判員制度についての稿でも書いたことですが、 「刑事裁判は被害者や遺族の感情とは別の次元の問題である」 ということです。検察は遺族の代弁者として容疑者を告訴するわけではないのです。 刑事裁判の被告がなにを裁かれるかと言えば、現代においては彼、あるいは彼女が犯したとされる犯罪の社会に対する影響です。なぜ死刑を廃止する国があるかといえば、刑の目的が「重い罪を犯した犯罪者を社会から隔離すること」であり、遺族感情を満たすためではなく、社会秩序を守るための刑だからです。「慰謝料」という言葉は私法における概念ですが、これはまさしく、被害者の感情は私法によって扱われるもの、ということを示しています。そして、刑法は典型的な公法です。 量刑の決定は、まず第一に、その時代において人を一人殺すことがどれだけ社会に影響を与えるかがある一定の刑罰の幅として刑法においてあたえられ、それを、精神状態、自首の有無、犯行の具体的な状況をもとに狭めていって、さらに他の同様なケースとの均衡をとったうえで確定するものと、自分は理解しています。ここで「遺族の無念」は、全く考慮されないとは言えないまでも、「社会への影響」の一要素として存在するにすぎません。書いていて不条理を感じないわけではありませんが、「誰も悲しむものがいないケース」を考えると、遺族感情を重く取り入れすぎれば、それはたとえば「身寄りのないものを殺してもあまり重い刑にならない」ということになりかねません。ところが、現代における流れは「誰を殺そうが、人を一人殺すことの社会的影響は変わらない」というものであり、70年代に尊属殺人に対して量刑が加重される刑法の規定が違憲とされたのも、このれにもとづくものです。刑法ができた当時の日本の社会通念では当然とされた「尊属殺人の重罰」が、時代の推移に伴って当然ではなくなった、ということですね。「遺族の感情」を考慮して量刑が変わるというのは、この流れに対する重大な変更でもあります。私法と公法の峻別すら破壊する大きな変更を行う以上、いったん取り入れられれば、簡単に後戻りはできません。そして、そこからあとは、弁護士による「被害者を思う残されたものの気持ちの否定」が弁護活動のひとつの柱になるでしょう。弁護士が、遺族や周囲が被害者を疎んじたり虐待していたような例をあげつらって、量刑の加算要因である「被害者を思う気持ち」を否定しにかかるわけです。結果として「残されたものの感情」は、よりいっそう踏みにじられることになりかねません。 また、仮にどんなケースでも人を殺せば死刑、という形でこれを解決したとしても、情状の要因は残ります。最低限、自首による減刑は、自首を促すためにも必要ですし、「介護に疲れて」「家族を守るために」といった要因を十分に考慮するためにもこのクッションは大きく取る必要があるでしょう。ですが、そういった要因はあらゆるケースで等しく考慮しなければならないものであり、恣意的な取捨選択は許されません。精神疾患要因の考慮にしても同様です。また、それ以前に「家族に対する暴力に耐えかねて1人を殺したケースと、快楽目的で50人殺したケースが原則として同じに扱われることが社会的に見て正当」であるという価値判断が、「人を殺せば原則死刑」というように法を変更するために必要となります。 公法と私法の別を破壊して、ハムラビ法典に連なる「復讐の法理」を復活させるか(これをした場合、西欧諸国から「野蛮な国」というレッテルを貼られることは覚悟しなければなりません。こちらがどういうつもりであるかと、あちらからどう見えるかは、全く別の問題ですから)、殺人の量刑の概念を見直すのか、いずれにせよ、ひとつの事件に関係する何人かの法曹に押しつけて片づく問題ではありません。関心のある人もない人も巻き込んだ、国民的な議論を経て、法律の改正という形で決着するしかないでしょう。社会を構成するのは、個々の国民なのですから。
by ka-takeuchi
| 2007-03-06 16:01
| 社会
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