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読売記者の証言拒否認めず=「取材源秘匿、許されず」 報道の自由は絶対であり、それを支える「取材源の秘匿」は、つねに守られなければならない。 これは疑いようがありません。これに疑問を唱える人がいるならば、民主主義社会の本質を勉強し直してくれ、と頼むだけですね。 ではこの問題は、その単純明快な、自明のことだけが焦点なのでしょうか? ちょっと視点をずらしてみましょう。 「取材源の秘匿」というのは、「ソースを明かせ」と詰め寄られたときに、それを拒むことだけをさすのでしょうか? そうは思えません。その段階で拒むのは、「取材源の秘匿」の最後の一線です。そもそも、その前段階として、「取材源を追求されないようにする」ということがあるはずです。 「これこれこういうことがある、という情報があった」ということをそのまま記事にすれば、「誰が漏らした?」となるのは当然です。仮に開示を拒むことができても、この段階では情報源となった人は生きた心地もしないでしょうね。そもそも、報道機関は、情報提供者にそういう思いをさせないようにする義務を負っているのではないでしょうか? 要するに、得られた情報を元にさらに取材を続け、物証を積み上げ、もととなった情報に頼らなくても告発が充分可能な状況を作り上げた上で記事を出し、情報提供者が前面に出ないような状況を作り上げるのが、リーク情報を求める報道機関が、得られた情報と引き替えに負う責任であるような気がするのです。それをせずに情報をナマの形で露出させ、それに触発されて集まる情報に頼ろうとするのであれば、きわめて安易であり、手法として永田議員と民主党がやったことと大して変わりません。取材を積み重ねるよりも、遙かにラクですが、その代償として情報提供者をよりフロントラインに近いところにおいてしまっているわけです。 このケースがそうだ、とは言いませんが、「取材源の秘匿」は、「秘匿する権利」の問題ではなく「秘匿する義務と責任」の問題であるわけです。このテーマが公に議論されるときに、あまりその認識が感じられないのが気になります。「取材の自由」と結びつけて考えがちだからなんでしょうかね。
by ka-takeuchi
| 2006-03-16 22:12
| 社会
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