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小学校英語、必修化を提言 中教審、高学年で週1時間 小学校段階の英語教育について検討してきた中教審外国語専門部会は27日、全国一律に小学校で英語を実施する「必修化」を提言する審議経過をまとめた。今後、親部会の教育課程部会で授業時間数などを審議するが、導入への異論はほとんどなく、正式に必修化が認められる見通し。 グローバル化がいくら進んだからといって、社会状況的にも、実務上の必要からも、英語が必要になる人は、結果としては少数派であると思います。「日本人の英語力が高くない」という事実が、それを証明しています。多くの人には、必要ないんです。必要ならば、必死で取り組むはずです。そして、中学卒業程度の文法の知識があれば、必要に迫られて努力すれば、すぐに仕事で外国人となんとか議論ができる程度には話せるようになります。できないとすれば、その基礎になる部分が欠けているんです。その状態ですぐ話せるようにならないときに、「日本の英語教育は役に立たない」という批判が出てくるのだと解釈しています。つまり、努力の欠如を教育のあり方の問題にすり替えているわけですね。 小学校で英語に触れることが悪いことだとはいいません。でも、学習にかけられる時間は限られています。英語に時間を割けば、ほかが犠牲になります。その犠牲と秤にかけた結果には、あまり思えません。 いきなり話を拡げますが、そもそも、「語学」ということばがいけない、と思っています。 われわれが通常関わる英語は、意思疎通の手段としてのそれです。つまり、技術であって学問ではありません。、もちろん、学問として深めることは可能ですし、それはとてもいいことですが、同時に「すぐには役に立たないもの」になります。 要するに、「学問」は「すぐには役に立たないもの」であり、「技術」は「すぐに役に立つもの」ということです。木にたとえれば、前者は幹、後者は枝です。枝からは葉がすぐ出ますが、幹は枝を出してからです。もともと、「学問」とは、ものを考える基礎を作るものであって、すぐに役に立てるものではありません。どこからでも枝を出せるようにするものです。枝はすぐに葉をつけられますが、まったく離れたところに葉をつけることはできません。幹があれば、そこからまた枝を出せます。 わたしは、学校とは枝を作るところではなく、幹を作るところだと思います。枝に気をとられては、幹がどんどん細くなります。 「英語が話せるようになりたいか」と一般的に問われれば、そりゃ「うん」というでしょう。でも、学校でそれをやるということは、幹を造る時間を枝に回すということです。幹が細くなるということは、「考える力の低下」を意味します。「英語か、考える力か」の選択だとすれば、そんなに簡単に返事はできないような気がします。個人的には、中学で文法をしっかり学べば、高校ではもう時間をとる必要はないと考えます。せいぜい、選択制にすべきでしょう。考える力を求める人が、技術を求める人の犠牲になるのは、あまり公平な結果とはいえないでしょう。
by ka-takeuchi
| 2006-03-29 22:38
| 社会
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