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書籍の検索は「著作権の軽視」 マイクロソフトがグーグルを批判 【ニューヨーク6日共同】ソフトウエア最大手米マイクロソフト(MS)の著作権を担当する弁護士が6日、ニューヨークで開かれた米出版社協会の総会で講演、米検索大手グーグルによる書籍検索サービスが著作権を軽視していると主張した。グーグルが買収した米動画投稿サイト最大手、ユーチューブに掲載されたコンテンツの一部が著作権侵害に当たるとして放送局から削除を求められ、著作権問題への関心が高まっている。 記事中の赤で表示した部分、いったいどういう趣旨で付け加えられたのでしょうか? この記者の方の認識や関心はともかく、著作権問題など、米ではYou Tube以前から十分に関心が払われてきた問題でありますし、もともと米は知的財産権の問題に敏感で、国際貿易の世界にこの問題を持ち込んだ原動力ともなった国です。今さら関心が高まったというのは、どうにもイメージできません。また、番組をそのまま掲載することの問題と書籍検索が、いったいどういう関連を持つかも、どうも自分にはわかりません。 一方で、書籍検索と著作権の権利関係がいったいどう関連して、「著作権軽視」になるのか、自分の知識が不足していてイメージできませんが、こちらはむしろ「興味」です。意味不明の後段をつけるぐらいなら、一言二言、こちらを補足してもらいたいと思ってしまいます。 通信社の記事は、必要最低限の文章で必要十分な理解を、が最大の命題です。余計な文をくっつけて、肝心の記事のテーマについての理解をおろそかにするというのは、記者の、それをチェックしたデスクのセンスの悪さ丸出しです。ああ、ひょっとしたら、記事自体の内容を、ご自分で理解していないのかもしれませんね。 #
by ka-takeuchi
| 2007-03-07 17:00
| 社会(マスメディア)
<京都小6殺害>元アルバイト塾講師に懲役18年
ご遺族の無念は大きいものとは思います。しかし、お察しします、というのは容易ですが、所詮、第三者に当事者の本当の気持ちなど、決してわからぬもの。そういう安っぽい言葉は発しない方がよいのでしょう。ましてや、いまから書く文は、「わからぬ人間にしか書けない」ものだろうと、自分でも思いますし。 なにが言いたいかというと、以前裁判員制度についての稿でも書いたことですが、 「刑事裁判は被害者や遺族の感情とは別の次元の問題である」 ということです。検察は遺族の代弁者として容疑者を告訴するわけではないのです。 刑事裁判の被告がなにを裁かれるかと言えば、現代においては彼、あるいは彼女が犯したとされる犯罪の社会に対する影響です。なぜ死刑を廃止する国があるかといえば、刑の目的が「重い罪を犯した犯罪者を社会から隔離すること」であり、遺族感情を満たすためではなく、社会秩序を守るための刑だからです。「慰謝料」という言葉は私法における概念ですが、これはまさしく、被害者の感情は私法によって扱われるもの、ということを示しています。そして、刑法は典型的な公法です。 量刑の決定は、まず第一に、その時代において人を一人殺すことがどれだけ社会に影響を与えるかがある一定の刑罰の幅として刑法においてあたえられ、それを、精神状態、自首の有無、犯行の具体的な状況をもとに狭めていって、さらに他の同様なケースとの均衡をとったうえで確定するものと、自分は理解しています。ここで「遺族の無念」は、全く考慮されないとは言えないまでも、「社会への影響」の一要素として存在するにすぎません。書いていて不条理を感じないわけではありませんが、「誰も悲しむものがいないケース」を考えると、遺族感情を重く取り入れすぎれば、それはたとえば「身寄りのないものを殺してもあまり重い刑にならない」ということになりかねません。ところが、現代における流れは「誰を殺そうが、人を一人殺すことの社会的影響は変わらない」というものであり、70年代に尊属殺人に対して量刑が加重される刑法の規定が違憲とされたのも、このれにもとづくものです。刑法ができた当時の日本の社会通念では当然とされた「尊属殺人の重罰」が、時代の推移に伴って当然ではなくなった、ということですね。「遺族の感情」を考慮して量刑が変わるというのは、この流れに対する重大な変更でもあります。私法と公法の峻別すら破壊する大きな変更を行う以上、いったん取り入れられれば、簡単に後戻りはできません。そして、そこからあとは、弁護士による「被害者を思う残されたものの気持ちの否定」が弁護活動のひとつの柱になるでしょう。弁護士が、遺族や周囲が被害者を疎んじたり虐待していたような例をあげつらって、量刑の加算要因である「被害者を思う気持ち」を否定しにかかるわけです。結果として「残されたものの感情」は、よりいっそう踏みにじられることになりかねません。 また、仮にどんなケースでも人を殺せば死刑、という形でこれを解決したとしても、情状の要因は残ります。最低限、自首による減刑は、自首を促すためにも必要ですし、「介護に疲れて」「家族を守るために」といった要因を十分に考慮するためにもこのクッションは大きく取る必要があるでしょう。ですが、そういった要因はあらゆるケースで等しく考慮しなければならないものであり、恣意的な取捨選択は許されません。精神疾患要因の考慮にしても同様です。また、それ以前に「家族に対する暴力に耐えかねて1人を殺したケースと、快楽目的で50人殺したケースが原則として同じに扱われることが社会的に見て正当」であるという価値判断が、「人を殺せば原則死刑」というように法を変更するために必要となります。 公法と私法の別を破壊して、ハムラビ法典に連なる「復讐の法理」を復活させるか(これをした場合、西欧諸国から「野蛮な国」というレッテルを貼られることは覚悟しなければなりません。こちらがどういうつもりであるかと、あちらからどう見えるかは、全く別の問題ですから)、殺人の量刑の概念を見直すのか、いずれにせよ、ひとつの事件に関係する何人かの法曹に押しつけて片づく問題ではありません。関心のある人もない人も巻き込んだ、国民的な議論を経て、法律の改正という形で決着するしかないでしょう。社会を構成するのは、個々の国民なのですから。 #
by ka-takeuchi
| 2007-03-06 16:01
| 社会
佑ちゃん、いきなり295球!「死にものぐるい」沖縄キャンプイン 早大に進学する早実・斎藤佑樹投手(18)が4日、沖縄・浦添市の浦添市民球場で早大野球部のキャンプに参加。初日からブルペンで直球のみ295球を投げ込んだ。神宮のマウンドを目指す『ハンカチ王子』は、4月14日に開幕する東京六大学リーグ春季リーグ戦に向けて、一気にペースを上げる。 カテゴリ分けで、スポーツにするかマスメディアにするか、迷ったんですが、一応スポーツ(野球)にしときます。 早稲田大学って、沖縄キャンプなんてやってたんだ……てなものじゃないでしょうか。before斉藤佑樹で知っている人って、どれだけいたのでしょうね。そもそも、大学の体育会って、こういうのは「合宿」といってたんじゃ? ラグビーだって、夏の菅平は合宿としか呼ばれないですし。今年からは違うのかもしれませんが。 そもそも、いち大学チームの「合宿」を、どうしてこんなに紙面や放送時間を割いて報じなきゃいけないんでしょ? 斉藤佑樹のニュースが知りたい人の大半は早稲田の野球部自体にはそんなに興味ないだろうし、そもそも野球というものは相手があって初めて競技になるわけだから、早稲田の合宿だけ報じていても、スポーツ報道にはなりません。斉藤佑樹のニュースを伝えるためだけに、「早稲田の合宿取材」という形でスポーツ報道の皮をかぶせているにすぎないでしょう。呼び方も、斉藤フリークの方々の耳ざわりがいいように「キャンプ」としてね。 メジャー報道もそうです。個人のニュースを伝えるだけなのに、あたかもMLBを伝えているような振りをして……。その日のイチローの成績は知っていても、その試合でマリナーズがどんな試合をしたかをキッチリおさえている人は、どれだけいるでしょう? たぶん、むこうしばらくの東京六大学の試合もそうなるでしょう。 日本の野球は、形式はともかく実態としてはNPBを軸に成り立っています。プロ野球の発展がなければ日本の野球の発展もありません。スポーツ報道ですらない六大学やメジャーの中の「個人」の報道で、その軸の部分の報道がついでのようになってしまうのはいかがなものでしょうか? 下手をすると、記事のなる木である斉藤佑樹自身を潰しかねない、松坂や岩村のジャマになりかねない、いまの報道の流れは、スポーツ報道ではありません。芸能報道です。 もちろん、いまのプロ野球に関わるニュースより、斉藤や松坂の近況を知りたい人の方が多いから、というのは有効な反論です。読者や視聴者(潜在的なそれも含めて)の関心に奉仕するのが報道の役割だというのはわかります。でも、それだけですか? だったら、政治でも経済でも文化でも社会でも、偏った関心に奉仕する事実だけを報じていればいいでしょう。愚にもつかない問題提起などする必要はありません。社説だって不要です。 当然ながら、ワタシが本当に問題提起や社説を不要だと思っているわけではありません。「なぜスポーツだけが例外なのだ?」と言いたいだけです。野球に関して言えば、日本のプロ野球に最大の関心が集まる状況があって、初めて野球界全体の正常な発展が可能なんです。関心が薄れているならば、それが戻ってくるようにつとめるのが、スポーツにおける報道の役割ではないでしょうか? オーストラリアにおけるラグビーの報道や、ブラジルにおけるサッカーの報道などとは、好対照です。これらの例では、報道されるネタの大半は国内のトップレベルの競技動向で、どんなにいい選手でも、国外に出た選手にはほとんどスポットはあたりません。国外に出た選手は、自分たちの国のラグビー、あるいはサッカーとは関係なくなるからです。また、フル代表以外の「年代別代表」に特段の関心が向くこともありません。そこの競技水準が、トップレベルではないからです。ロナウジーニョがいたときですら、ブラジルの五輪代表に人々の関心が向くことはほぼなかったのですから。 ワタシは日本のマスメディアの水準を、かなり低く評価しています。そのレベルの高くない報道機関が、他の分野では曲がりなりにもやっていることすら、スポーツの世界ではできていません。要するに、スポーツ報道の位置づけが、おまけのようなものだと言うことでしょう。そして、「読者、視聴者の関心に奉仕する」という言い訳を可能にしているという意味において、日本人のスポーツに対する意識がその程度のものだということです。それじゃ、競技水準の底上げなんておぼつきませんよね。 #
by ka-takeuchi
| 2007-03-05 11:28
| スポーツ(野球)
決別後も大手本社が黙認か 名古屋市の地下鉄談合 名古屋市の地下鉄談合事件で、支店営業担当者らが逮捕されたゼネコン5社のうち、一部の大手の本社営業幹部が、談合で合意した落札予定工事について、支店側から報告を受けていたことを認めていることが1日、分かった。容疑の入札は、ゼネコン各社が2005年末に談合からの決別を宣言した後に実施。名古屋地検特捜部は、工事が落札されることを知りながら黙認していた疑いもあるとみて捜査する。 談合はいけない。公共事業の入札における談合は税金の無駄遣いを生むから。 一般論は極めてよくわかります。ですが、もう少し突っ込んで考えてみる必要はないでしょうか? 正常な競争が行われたときのコストと、談合が行われたときのコストが、本当に正しく比べられているでしょうか? 談合が行われると、普通は落札価額が上昇します。常識的にはこの差がそのまま税金の無駄遣い分としてとらえられています。 談合のない状態というのは、経済学的にいえばより自由競争に近い状態ということになります。特に、建設・土木の世界というのは、企業の規模以外は比較的自由競争のひとつの前提(同様のサービスを提供しうる数多くの経済主体の存在)に近い状態にありますから。そして、経済学的にいえば、自由競争というのは、もっとも資源が効率的に使われる状態であり、先ほどの前提を満たす企業の「市場への自由な参入と、市場からの自由な退出」が実現されている状態です。退出とは、「利益が機会費用(資本を他の用途に振り向けたときにえられるであろう利益)を下回ったときに発生する」わけですが、現実におけるひとつの典型的な形は、いうまでもなく「倒産」でしょう。つまり、自由競争とは「勝ち組と負け組の存在を当然の前提とする」概念であることになります。 一方、談合は何ゆえに行われるかといえば、市場の固定化のためであり、目指す主な具体的効果は大手企業の利潤の安定化と、下請け・孫請けクラスの限界企業の意図しない退出(つまり倒産)防止です。本来生き残れないはずの企業を生き残らせるために、余分なコストが発生するというわけです。そのために正常な競争が行われるときよりも落札価額が高騰するのですが、いうまでもなく、正常時と談合時の落札価額の差が納税者に与える損失と等しくなるのは、退出する企業を放置するときだけです。正常な競争の結果として生まれる敗者の救済策をとれば、それに必要な財政支出のぶんだけ、納税者の負担の差は小さくなります。 これを、最近の時事用語に即してよりわかりやすく表現すると、勝ち組と負け組の存在、格差の拡大を容認する立場に立って、初めていま言われている「談合のコスト」をそのままの形で批判できるということになります。格差是正を主張する立場に立つ場合、談合のコストと格差是正のコストを比較したうえで談合を糾弾する必要がありますが、とりあえずそういう議論は見せて頂いたおぼえがありません。 念のために申し上げますが、自分は談合を擁護する意図は全くありません。むしろ、正常な競争から生まれる格差をあえて是正する措置をとることは市場経済をゆがめるものとして賛成できないという立場をとるものであり、談合も同様の立場から許容しません。指摘したいのは、格差是正という観点からいえば、格差是正と談合は「つぶれてから救うか、つぶれる前に救うかの違い」という程度のこととなる可能性があり、「そうでない」という場合は、それを論証する必要があるということです。 不正な競争の排除は小さな政府に連なる施策であり、格差是正は大きな政府に連なる施策です。正常な入札と談合時の落札価額の差を談合のコストとするのは小さな政府の考え方であり、その同じ口で大きな政府の施策である格差是正を主張するのは、やや混乱した議論だといわざるをえません。大きな政府と小さな政府では、政策全体を貫く価値観自体が異なるのであり、いいとこ取りを都合よくできるという矮小な議論ではないのですから。 #
by ka-takeuchi
| 2007-03-01 16:59
| 社会
「日本は極めて同質な国」 伊吹文科相が民族めぐる発言 伊吹文明文部科学相が長崎県長与町で行われた自民党の支部大会で25日、「日本は大和民族が歴史的に統治してきた。日本は極めて同質的な国」などと発言した。日本と民族をめぐる自民党議員の発言としては、1986年に当時の中曽根康弘首相が「日本は単一民族国家」と発言し、アイヌ民族が抗議した例などがある。伊吹文科相は「教育再生の現状と展望」のテーマで約40分講演。 うーん、ちょっと理解に苦しむのですが。 この記事だけで、何を判断すればよいというのでしょう? 価値判断をするだけの材料をまったく与えてもらってないのですが、どうやら記事のトーンは批判的。では、その根拠は? 日本は単一民族の国ではありません。ですから、かつての中曽根発言には、引用されている部分だけで、すでに問題ありです。ですが、この伊吹発言はどうでしょう。歴史的に、天皇による支配と説明できる時期が長かったわけですが、この時代は当然民族的な振れはないですね。もちろん、統治機構の中には帰化人、渡来人も含まれていたりするわけですが、「全体として」とは言えるでしょう。鎌倉、室町、江戸幕府の時代も、特に民族的な差異があったという話は聞いてません。であれば、それを大和民族というのかどうかは自分は確信が持てませんが、ひとつの民族によって構成されているわけではなくても、統治されてきたというのは、大間違いではないのではないかと。んで、だからこそ、少数民族の扱いが歴史的問題として存在し続けたのではないかと。少なくとも、「そうではない」と事実を突きつけられたならば、伊吹クンを責めるわけにはいかない程度には、ワタシももの知らずということになります。ただ、自分は歴史は好きで、テーマに偏りはあっても、わりと勉強した方だと思うんです。そのワタシが知らない歴史的事実が「一般常識といっていい知識」である可能性は、かなり低いと信じてまして、それを知らないからといって伊吹クンを批判する気にはあまりなりません。 後半部分の「同質」については、民族関連の発言である前段と関連しているかどうかは、この引用だけからは判断できません。関連しているとすれば大間違いですが、関連していないとすれば、「誤解を招く言い回しをしたこと」が問題となるぐらいでしょう。また、ワタシは、現代のネイティブ日本人は価値観、ものの考え方が極めて似通っていると思ってますし、これは「極少数による圧倒的多数の支配の長期的継続」「その圧倒的多数の、自立的思考からの隔離」「明治以降の極端な西欧崇拝と嫌悪の同居」が歴史的にもたらしたものだと思っていまして、これを「同質」と表現することは可能である気がします。もちろん、それと同じ意味で伊吹クンが「同質」と言ったのかどうかは知りませんが、すくなくとも、「そうではない」と断言する材料も、ここでは与えられていません。 もちろん、伊吹クンを擁護するためにこの文を書いているわけではありません。彼の発言が「問題なし」となる可能性を論じているだけで、実際はやはり問題があるのかもしれませんし、ワタシが指摘した可能性の方が低いのではないかと、自分でも思います。もう一歩突っ込んだ取材がなければ、確信を持った価値判断は出来ない、ということです。 ただ、よく注意してほしいのですが、この記事は事実を書き連ねているだけで、仮にワタシが指摘した可能性が当たっていても、「別に伊吹大臣を批判した記事ではない」と言い抜けることが出来るのです。報道するという意思決定、選択する事実が価値判断を含んでいるだけで、記事の中にはなんの価値判断も示されてはいません。だから、「事実のみを報道した」と主張できます。自らの手を汚さずに、具体的に特定の価値判断を表明するという行動を国民に押しつけるわけです。ある意味で、報道としてもっとも卑怯な姿勢といえるでしょう。 あらゆる報道は、そのウラに特定の価値判断があります。事実のみを報じた中立的な報道などあり得ません。実際、この「事実のみ」の報道でもけっこうな人がその価値判断に動かされているわけです。ワタシも記事を見た瞬間には、動かされかけました。報道機関は、それを自覚し(しているとは思いますが)、国民に周知させ、自らの価値観を常に国民に問い続けるという姿勢がほしいですね。それは、ただ闇雲に批判を重ねるのとはわけが違います。ぶれない価値判断があれば、ある程度の期間をとったときに、同じ機関の批判同士が矛盾する、なんてことも起きないでしょうし。 (追補)人権関連の部分に言及した記事もあるようですが、これによって上に記したことは影響は受けませんね。やはり事実が報じられただけですし、人権が公序良俗によって制限を受ける場合があり、また、権利と義務、自由と責任が表裏一体であるのは、それこそ常識ですから。発言者の価値観を問うには、やはりもう一段突っ込んだ説明が必要です。 #
by ka-takeuchi
| 2007-02-26 14:17
| 社会(マスメディア)
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