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福藤24セーブ、勝利に貢献 NHL、レディングGK 北米プロアイスホッケー、NHLのキングズ傘下で、イーストコースト・リーグ、レディングに所属するGK福藤豊が21日、本拠地の米ペンシルベニア州レディングで行われたシンシナティ戦にフル出場し、24セーブの活躍で4-2の勝利に貢献した。福藤は第1、3ピリオドに1失点したが、味方が第2ピリオドに3得点し、さらに第3ピリオドにも加点して逃げ切った。(共同) 別にこの程度の報道で無理に目を引きつけようとすることもないでしょうに……。 いつからレディングはいわゆるNHLのチームになったのかな? 記事の中身と違うじゃないですか。 福藤選手自体は応援してますが、24セーブで2点とられたのなら、セーブ率は0.923だから、NHLのトップクラスのゴールテンダーなら、アベレージで叩き出す数字ですね。この程度で「活躍」とか言われても、逆に福藤選手に失礼では、と思ってしまいます。 #
by ka-takeuchi
| 2007-02-22 16:53
| スポーツ
裁判員PR、契約前に制作 仲間由紀恵さん広告も 最高裁が裁判員制度のPR映画制作に当たり、広告会社と契約書を交わしていなかった問題で、新たに女優の仲間由紀恵さんを起用した裁判員制度の新聞広告なども、最高裁と広告会社が契約書を作成する前から、制作が進められていたことが19日、分かった。同日の衆院予算委員会で最高裁の小池裕経理局長が明らかにし「映画の契約書は決裁中。広報に不慣れで事務に混乱があった」と釈明した。 このニュース自体は、「やり慣れないことをやるとこうなる」でおわりなのですが、そもそも裁判員という制度について、ワタシはいまだに納得がいっていません。他人に関わっていくという姿勢は、「現代社会に必要で、かつ現代日本人に欠けているもの」と認識しており、これを涵養していくような制度が導入されるとすれば、積極的に賛成していくでしょう。ただ、裁判員という制度はそれとは異質であると思います。「他人の人生に責任を持つ」ようなことは、ワタシはちょっと遠慮したいと、いまも思っています。 日本国憲法下の刑法においては、罪刑法定主義が基本となっています。そして、どういう形で「法定」されているかと言えば、犯した罪が及ぼす影響と刑罰の均衡がとれるように、です。で、なにに対する影響かと言えば、社会的影響です。ここに、国によっては「死刑廃止」が主張される合理的根拠のひとつがあり、「情状酌量の余地のない凶悪な犯罪を犯すものは社会から隔離する必要がある」という命題を実現させるための手段として、死刑と終身刑の間に差があるか、という問題となります。社会全体という視点から見れば、犯人が死のうが一生刑務所に入ろうが、「社会から切り離される」という点では同じですね。「刑期短縮の可能性の有無」だけが違うことになります。 死刑の可否についてのこれ以上の議論はここでは割愛しますが、重要なのは、「被害者や家族の感情」といった視点が、ここでは一切考慮されていない、ということです。忘れられているのではなく、刑事においては、犯罪の社会的影響が裁かれるものであり、被告と被害者の関係はその対象外だというのが、法体系全体の考え方の基本にあるわけです。従って、刑事裁判の判決について時々目にする「被害者感情が考慮されていない」という批判は、そもそも的はずれだと言うことになりますね。 「目には目を、歯には歯を」というのはハムラビ法典ですが、これに連なる「復讐の法理」が、刑罰を考える上での基本原則だった時代もあります。「被害者感情」を重視する考え方は、これに近いものでしょう。しかし、これでは裁かれる対象が「犯人と被害者の関係」になってしまい、本質的に民事裁判になってしまうのです。しかし、刑法はあくまで社会秩序と犯罪の関係を定めたものですから、民事とは直接には無関係です。もちろん、個々の犯罪の社会的影響は時代によって異なるものですし、それを常に見直す必要はあるでしょうが、個々の刑事裁判は、定められた刑法の原則を元に、細かな基準を設定して刑罰を設定していくという、極めて技術的な作業ですから、素人が口をはさむよりも専門家にゆだねるのが合理的でしょう。国民が口を出すべきは、個々の裁判ではなく、「刑事法体系のあり方」全体についてであり、それも「社会秩序と犯罪の関係」という視点からである必要があるというわけです。復讐の法理は、それでひとつの考え方ですから、それを選択するのもアリなのですが、そうであるならば、民事と刑事の峻別を含めて、法体系全体を抜本的に見直すことが前段階として必要になります。それをしないままに、安易に刑事裁判にアマチュアを関与させることには、強い疑問を感じざるを得ません。法体系をいじらずに「被害者感情」を軸にした世間の批判をかわす小手先の手段にしか見えないのです。 もちろん、ここまで自分が峻別したとおり、民事であれば話は別です。まさにここでは「被害者に与えた影響」が議論されるわけですから、ここに第三者を関与させることは、刑事に比べれば自然といえます。判例をもとにした流れに対して、「被害者はそれでは納得しない」という気持ちを反映するのは、ある意味で第三者の素人がもっとも効果的な場合もあると思います。裁判を純粋な技術的作業を超えたものにするには、必要なことかもしれません。ただ、本来技術的作業であるべき刑事裁判に、自分を含めた素人が関与することは、社会秩序という観点から、逆に危険なことに思えてならないのです。 #
by ka-takeuchi
| 2007-02-20 19:22
| 社会
<秘密漏えい>空自1佐書類送検へ 中国潜水艦火災報道で 05年5月、中国海軍の潜水艦が火災を起こした事故の新聞報道を巡り、自衛隊警務隊が、防衛省情報本部所属の航空自衛隊1等空佐(49)の関係先を、自衛隊法違反(秘密漏えい)の疑いで家宅捜索したことが分かった。警務隊は週明けにも、同容疑でこの1佐を書類送検する方針。 当ブログでも何度か書いていますが、報道の自由は絶対です。制約があってはなりません。なぜかと言えば、それが、国民に奉仕する目的で行使されるものだからです。報道機関に与えられた権利ではない点、注意が必要です。 権利ならば、そこに事実があればそれを報じるために障害があってはならないでしょう。ですが、権利ではないのです。報道機関は、「国民の知る権利に奉仕するための自由」を行使するために、その事実を「努力して」つかむ義務があるのです。 では、どういう努力が求められるでしょう? このケースで言えば、自衛官や公務員には守秘義務があります。なんのための義務かといえば、国益を守るためです。米軍から提供された情報をリークすることで、信頼関係が崩れますし、信用しない相手には、情報をくれなくなります。リークすれば、それによって国民にいま得られている国益よりも大きなメリットが生まれることを、情報源に確信させることによってリークを促すのが報道機関のなすべきことでしょう。情報源はそれによって罰せられますが、罰せられてもかまわない、それでもその情報は公になるべきだと情報源が考える、それが「善意の情報漏洩」であるわけです。「あなたは罰せられるかもしれないが、それでもあなたの知っている情報を報じることによって、これだけ大きな利益が国民に対して生じる。どうか、ご自分を犠牲にしてでも話してほしい。ちなみに、取材源の秘匿は約束するが、仮にそれが明るみに出たときに守りきれるかどうかは約束できない」と言うアプローチであるべきなのです。それで相手が話さなくても、それは報道機関側の未熟です。相手を説得するだけの要素を呈示できなかったのですから。 この努力をしないですませようとするのが、「情報漏洩によって情報提供者が罰せられるのは報道の自由に対する制約」という主張です。労せずして情報が目の前に出される状況を作ろうとしているのですから。結果的に記事になろうがなるまいが、報道機関に対してなら何を言っても罰せられないなら、なんのための守秘義務でしょう? 報道機関自身が国益を考え、報じようとしているニュースの重さと秤にかけて、その上でリークを促し、かつ取材源がわからないように出来る限りの努力をするのでなければ、ただのスクープ合戦のためのスクープにしかなりません。結果としてたまたまその中に重要なニュースがあるかもしれませんが、そんなものは報道の成熟になんの足しにもならないでしょう。この件が報道の自由に影響を与えると考えること自体が、日本の報道機関が報道の自由をゆだねる価値のある対象かどうかを疑わせるものであることを知るべきでしょう。 #
by ka-takeuchi
| 2007-02-16 13:43
| 社会(マスメディア)
記帳や献花、途切れず 宮本巡査部長の交番や署 東京都板橋区の東武東上線で線路内に入った女性を助けようとして電車にはねられた警視庁の宮本邦彦巡査部長(53)の死亡から一夜明けた13日も朝から、勤務先の常盤台交番や板橋署には献花や記帳に訪れる人が途切れなかった。警視庁は12日付で宮本巡査部長を警部に2階級特進させた。交番には花束約60束が届けられ、記帳は200人を超えた。出勤途中や近所の人が交番前で手を合わせ冥福を祈った。 胸を締めつけられるニュースだ、と思う。身を挺して他人の生命が失われることを防ごうとした、その当人の生命が失われてしまったのだから。 だが、やはり何か違うと思う。我々が冥福を祈るべきは、宮本氏であり、宮本「警部」ではない。失われようとしている他人の生命を救いに動いたその行動は、いかに勤務中のものであろうと、人間として偉大な行動なのであって警察官として偉大なのではない。 警察官の責務は市民の安全を守ることであることは疑いがないが、それは、安全、治安といった、securityの観点からのものであり、自らの命を自らの意思で絶とうとする行為を防ぐことは、警察官の仕事ではない。宮本氏が制服を着ていなければこのような行動には出なかっただろうか? ワタシはそんなことはないと思う。人間として尊敬すべき行動を、警察官として誉め称えるのは、宮本氏の行動を矮小化することであり、また、他人に積極的に関わるという、あまり時流に乗っていない行動の重要さを、自分たちが認識するチャンスを放棄することではないだろうか。 国が国境の中に閉じこもっては生きていけない現代社会において、国境があるが故に、積極的に他国に関わっていかなければ、いずれ日本は孤立する。だが、ひとりひとりの中に積極的に他者に関わっていく心がなければ、国としてそういう行動をとることは出来ない。結局は、自分と関わりのない所のことに、自分の負担で行動が起こされることを快く認められるかどうか、という問題だから。自分の県の中で苦境に陥っている地区があれば、県の財政負担で何かの措置がとられるだろう。それはある程度普通のことかもしれない。かなり身近に感じられることでもある。日本の中で、苦境に陥っている県を国家財政で支援することは? あまり違和感はないだろうが、最初の例より少し自分との関わりは希薄に感じるはずだ。そして、より希薄に感じるのが、途上国等に対する援助である。最初の例と最後の例の感じ方を出来るだけ小さくしていくことが、これすなわち「日本人の国際化」である。そして、このプロセスは、他者に積極的に関わる心なしには進まない。宮本氏の事例を「警察官の行動」として片づけることは、それを他人任せにすることを意味してしまう。それは、世界の中の日本にとって、必ずしもプラスにはならない。 #
by ka-takeuchi
| 2007-02-13 17:05
| 社会
<飛び降り>中2男子マンションから 千葉・松戸 千葉県松戸市教委は2日、同市立中学校の2年男子生徒(14)が1日午後、市内のマンションから飛び降り、死亡したと発表した。生徒は前日に学校で仲間と2年の男子生徒を殴るなどしていじめて肩を骨折させ、教師から注意されたといい、飛び降りたマンションには骨折した生徒が住んでいた。 12月に、こんな記事を書きました なぜ学校がいじめの認定を渋るか、その背景が少し見えた気がする事件です。 要するに、「いじめる側」は、いじめている自覚、とがめられるべきことをしているという自覚が、本当にはないように思えるのです。だから、それをとがめられると、追いつめられてこういう行動に出る子供がいるし、そこまで行かなくても、親に「特に悪いことをしないのに怒られた」などと家で話せば、親は早速ねじ込みに来るでしょう。いまの世の中で、「親はそんな理不尽なことはしない」と断言できる人は、誰かいますか? ちなみに、自分はできません。 こういう状況で、学校や教師に「いじめにきちんと向き合え」とばかり言いつのることが果たして正しい道なのか、よくわかりません。前に書いたことでもあるのですが、学校がきちんといじめに向き合うには、学校の姿勢が正されるとともに、その周囲が学校の行動をサポートするにはどうしたらよいかが、十分に議論されるべきでしょう。このままでは、教職に就こうというひと自体がいなくなるかもしれません。 #
by ka-takeuchi
| 2007-02-03 00:30
| 教育
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