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<敬語>「丁重語」「美化語」加え5分類細分化 文化審答申 文化審議会(阿刀田高会長)は2日、敬語の種類や働きを見直した「敬語の指針」をまとめ、伊吹文明文部科学相に答申した。指針では、これまで「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の三つに分けていた敬語の種類を見直し、謙譲語を「謙譲語1」「謙譲語2」(丁重語)に、丁寧語を「丁寧語」「美化語」にそれぞれ細分化。従来の尊敬語と合わせて計5種類に分類した。(後略) 与党単独でも衆院委員会採決へ 柳沢発言で対立激化 2006年度補正予算案を審議する衆院予算委員会が2日午前、開かれた。女性を「産む機械」に例えた柳沢厚労相の辞任を求める民主、共産、社民、国民新の野党側は1日に引き続き審議を欠席。これに対し自民、公明の与党側は与党単独でも2日午後に委員会採決、その後の衆院本会議で可決し、参院に送付する方針だ。安倍首相は「陳謝」で事態を収拾、柳沢厚労相を辞任させない考え。 役所の縦割り構造が必要か、と問われれば、ワタシは必要と答えます。行政サービスの本質的な役割は、国民への安定的な生活基盤の提供であり、「画期的な施策の実施」と「石橋を叩いてから渡るかどうか考える慎重さ」の、どちらか必要かと言えば、問題なく後者です。そのため、ひとつの施策について、関連する様々な角度から、それぞれの担当部局が是非を検討し、既存の枠組みになるべく影響が及ばないようにするわけですね。行政機関が本来の役割を果たすために、ネガティブチェックは必須の機能であり、そして、それをもっとも効率的に行うのが、縦割りの構造であるわけです。 この縦割り構造については、その弊害が表に出やすく、とかく批判の的になりがちですが、そもそも行政サービスの成果については、その性格上、問題が起きれば人は気づきますが、問題が起きない限りほとんど誰もその存在に気づきません。世で唱える人が多い「縦割り行政の打破」については、そのマイナス面のみに着目した近視眼的なものといわざるを得ないでしょう。古今東西、ほとんどの行政機構が縦割りの構造を持ち続けているという事実に、もう少し思いをはせた方がよいと思います。 ただ、行政機構のこの性格を所与とすると、どうしても新しい状況への対応が鈍くなります。ここを補うのが政治の役割であり、関係部署から山のように出されたプロとコンを見て、現状維持が適当と思えばそのまま行政にゆだね、行動が必要であれば特定の部署を黙らせます。その意味で、国の運命は行政ではなく政治がにぎると言えるわけです。 とまあ、ここまで一般論を述べたのは、ここで取り上げたふたつのニュースが、行政、政治それぞれの機能不全を示す例だからです。本当は別々に論じる話ですが、同じようなことを2度書くのもどうかと思い、強引に一緒にしました。 まず文化審の方から。 ネガティブチェックが生命線の行政機構にとって、風通しの良い悪いは死活問題です。隣が何を考えているかを常に把握し、その動きに連動するのが行政の行動原理ということですね。ところが、教育再生会議が「教える時間の不足」を大テーマにしている(それ自体の当否は保留します。ちなみに、自分は「否」の立場)時に、文化審は敬語を細分化して「教える内容を増やしている」わけです。まさに、「隣が何をしているかまったく関心を持っていない」から出来る芸当でしょう。明らかな機能マヒです。まあ、この話を「縦割り解消」の議論に転化させないために、まず一般論から入ったのですが……。病気には治療が必要ですが、風邪がただの風邪である限り手術は必要ありませんから。 次に「舌禍」問題です。 政治の役割は、先ほど一般論で明らかにしました。であるからには、正しい行動を起こすためには、政治家には卓越した先見性と識見、そして、国民が「高潔な国」を目指す場合には、並はずれた潔癖な人間性が要求されることになります。 この物差しを使う限り、某厚生労働大臣はアウトです。ワタシは日本人が「高潔な国」を指向する投票行動をしているとはまったく思っていないので(個別に聞けば、そりゃ指向していると答えるでしょうが、少なくとも半数近い棄権というのは、「誰が選ばれてもかまわない」ということを、好むと好まざるに関わらず意味するのですから)、その人間性については、問題外であることを前提とした上で、保留します。現在の日本の政治家として、彼の何が問題かと言えば、「こういう言葉を使えばこういうことが起きる」という、少し考えればわかることを口にしてしまうという、その先読み能力の欠如に示される、思考能力の欠如です。そして、「共同参画」という重要な政治テーマを問題意識を持ってとらえていない、その識見の欠如です。政治家は言葉で仕事をする部分が多いのですから、その使い方で先見性を欠いてしまってはどうしようもありません。で、それを認識していないのが致命的ですから、どうあってもお辞めいただくしかないでしょう。 そして、問題にしなければならないもうひとつは、野党の行動です。補正予算というのは、本来一刻も早く成立させて施策の実施に移さなければならない緊急性と、予算として審議が尽くされなければならないという使命をともに負っています。こういう重要な問題の取り扱いを、誰がどう見てもアウトの大臣の命運を秤にかけて、釣り合っていると思って悦に入っている、その問題意識の欠如はいかんともしようがありません。別に「人質」が野党として間違った作戦とは言いませんが、何を人質に取るかで野党の資質が問われることを忘れるべきではないでしょう。 #
by ka-takeuchi
| 2007-02-02 15:36
| 政治
ゆとり教育見直し、社会奉仕必修に7割賛成 [ 01月29日 03時03分 ] 微々たる声ですが、何度でも繰り返します。 ゆとり教育が誤りだったと結論を出すなら出すでいいです。でも、それなら、「何をどれだけ教える必要があったのに、これだけの時間しかなかったためにこれだけしか教えられなかった」ということを示す必要があるのではないでしょうか。でなければ、10%授業時間増が十分なのか焼け石に水なのかさえわかりません。これだけ重要な問題を、こういう形の検証を抜きにして印象論で語っていいものだとはとても思えません。印象論じゃないというなら、その根拠を明示してほしいんです。でなければ納得できません。納得できるはずがありません。 「学力の低下が顕著だから」というのは、まったく理由にならないはずです。教育の質は時間数で語られるものではありません。時間数だけ多くても、それがあまり密度の濃いものになっていなかったり、学力向上につながらない時間が多かったりしたら無意味でしょう。たとえば、タイプもレベルも違う学校の受験を目指す生徒に同じ内容の授業をするとしたら、いくら密度が高い授業をしても、その時間は効率的に使われたとはとても言えません。受験対策が教育の効率を下げているという側面には、果たして光は当たったのでしょうか? ちなみに、以前も書きましたが、受験勉強を自分で進めるために必要なことを教えるためには、いまの授業時間は決して少なくないと思います。 また、社会奉仕を必修化するそうですが、それこそ時間の無駄遣いではないですか? 社会奉仕に意味がないとは言いません。ですが、授業の時間数を教育レベルの指標とするなら、それによって授業時間が減るわけです。そこはどうするのでしょう? いや、まあ、些末な議論はおいておきます。ただの揚げ足取りですから。でも、社会奉仕というものは、ボランティアという言葉が示すとおり、「自分から」やることに意味があることです。「自分で社会に必要な機能を見いだし、それを自分の意思で行う」というのが本来のボランティアの意味合いであり、「無償で」ということも「奉仕」という意味合いも、当然には含みません。日本語で不正確に使われているこの「ボランティア」的な意味での社会奉仕を必修化するというなら、それはまったく無意味です。社会奉仕が教育上の意味を持つとすれば、「それによって社会と自分の関係を体で学ぶ」という、明確な教育的目標を持った場合だけです。社会科学系の科目で学ぶかわりに、体で学ぶわけです。ですから、この場合は該当する科目の授業を減らさなければ授業時間を増やす意味は吹き飛びますし、授業の代用とするためには、活動の内容をとことん吟味しなければならなくなります。学校側の負担は当然アップします。 学力低下の責任を押しつけられ、授業時間増でただでさえ忙しくなる先生方に、さらに負担を強いることになります。さらに、活動中の事故について、また先生が責任を負わされるようなことになるなら、腰も引けてしまうでしょう。「それが教師というものだ」と押し切ってもかまわないんですが、日本は職業選択が自由な国です。割に合わない仕事に就こうと思う人は減ります。「割に合わないとか考える人は教師になる資格はない」と批判されるかもしれませんが、現状を見る限りは「資格がないならないでけっこうです」と答えるでしょう、自分は。で、教師志望の人の数が減れば、必然的に教師のレベルは下がるんです。レベルが下がれば、10%の授業時間増や社会奉仕の教育的効果など、すぐに吹き飛ぶでしょう。そこまで考えた議論なのでしょうか? #
by ka-takeuchi
| 2007-01-29 11:41
| 教育
<角田参院副議長>会見し辞任表明 政治資金不記載問題で 角田義一参院副議長は26日、国会内で会見し、01年参院選時の政治資金不記載問題の責任をとり副議長職の辞任を表明した。会見に先立ち扇千景参院議長に辞職願を提出した。角田氏は民主党の会派を離脱中だが、同党にとっては「政治とカネ」問題が焦点となる通常国会冒頭で大きな痛手を被る形となった。 これで民主党は「追求の体制が整った」と胸をなで下ろしているのでしょうか。ですが、それは「政治とカネの問題」を政争に使うだけの時間の無駄遣いですね。問題は提示されました。どれだけこれを次の選挙につなげるか、それは国民の問題です。国会に気にしてもらう必要はありません。それよりももっと自分達の仕事をしっかりやってください。 国民の問題、といま書きました。国会議員のレベルというのは、国民にとっての鏡です。国会議員のレベルが低いということは、日本人のレベルが低いということです。政治とカネの問題が何度わき起こっても、やっぱりそういう問題を抱える国会議員を選んでしまうのは、国民自身ですから。決して国会議員のていたらくと自分自身を切り離して考えることはできないのです。 どれだけの有権者がこの問題を真剣に考えているでしょう? 「けしからん!」と言い続けることが真剣に考えることだと思ったら大間違いです。なぜこの問題が消えないかといえば、政治にカネがかかるのが現実だからでしょう。真剣に考えるとは、なぜカネがかかるか、を自覚的に考えることから始まります。そうすると、カネをかければ票が伸びる、という現実が浮き出てくるはずです。票を入れるのは有権者ですから、有権者がカネを使わせていると言うことになります。 もちろん、全ての「カネを使う活動」が悪いと言っているわけではありません。有効な使い方もあれば、下卑た使い方もあるでしょう。ただ、闇雲にたまたまドジを踏んでしまった議員を突き上げるより、いったい議員がどれだけのカネを使って何をしており、そのうちのどれだけが評価できる使い方で、どれだけが「ふざけるな」なのかを徹底的に知ることが重要です。それを知らずに批判の声を上げても、隠し方が巧妙になるだけです。必要なカネは、おおっぴらに使えるようにしてあげた方が、むしろそれ以外を遮断する効果を生むのではないでしょうか。 また、必要なカネはなにかをしることで、「カネをかけない選挙」を標榜している候補者が「実は怪しいかもしれない」と疑ってみることもできます(特定の方を念頭に置いているわけではありません)。 目の前の問題にとらわれる前に、その根っこを見る習慣を有権者がつけないと、いつまでたっても「政治とカネ」が国会の議論の大半を占めてしまうことになりかねません。 #
by ka-takeuchi
| 2007-01-27 02:00
| 政治
<給食費>滞納者9万人超、額は22億円 文科省調査 給食を提供している全国の小中学校で05年度、給食費の滞納額が計22億2963万円に上ることが24日、文部科学省の初めての実態調査で分かった。滞納者総数は全体の1%にあたる9万8993人で、回答した学校の6割が「保護者の責任感や規範意識」の欠如が主な原因と認識。また、「保護者の経済的な問題」を原因に挙げた学校も33.1%あった。 <教育再生会議>安倍首相、教育3法の改正案国会提出を明言 (記事略) まず、給食費の報道の方の見出しの「まちがい」を指摘しておきます。9万人超ではなく、10万人弱です。一桁少ない方に強引に数を丸めるのはいかがなものでしょうか。ここに、報道機関として「より少ない方にイメージさせたい」という意図が垣間見えます。このケースは政府・学校サイドの言い分に理があるが、だからといって読者、視聴者にはなるべくケンカを売りたくない、ということですね。叩く対象を「政府や企業」といった非個人に限定することで国民一般から切り離しておきたいようですが、国民に考える材料を提供するという報道の使命を考えれば、明らかな背信行為といえます。 さて本題です。 給食費の滞納は、滞納者のモラルの問題と片づけては、何も生まれません。普通であることがなによりも大事な日本人にとって、給食費を滞納しても普通でいられるからこそ滞納するわけです。滞納するものの意識の欠如と、それを許容する周囲の無自覚の、両方が問題なのです。だからこそ、保護者を徴収に関わらせた一部の学校では滞納者が激減したりします。これは、滞納しても「給食を抜かれる他から浮いた存在となる」ことはないだろうという甘えが、保護者間で「納めているものと納めていないものの対比」が明確になることで「他から浮いた存在」となってしまう恐怖に変わるためだと考えられます。かなりの高額所得者が公営住宅に居座っているケースと似てますね。これも、所得水準のチェックを入居者同士で行うようにすれば、状況は変わるかもしれません。 滞納された給食費はいろんな形で他者の負担となりますが、滞納している家庭にはおそらくその自覚はないでしょう。公共の場で騒ぐ子供を放置する親、道に自転車を放置する人、人の多い場所でタバコを吸う喫煙者、コーヒーショップやレストランで携帯を使う人、等々と根は同じで、自分の行動が他者に与える影響に関する想像力の欠如が最大の問題なのです。ものを考える力を身につける努力をしない学生、それを教える意思も能力もない学校、ものを考えないほうに国民をリードする報道と、いろんな要素がからみあって、頭の中で思考を展開する能力が失われていってしまうところに問題の淵源があるわけで、それを「個人のモラル」で片づけてしまうのは、問題の矮小化に他なりません。 教育再生会議の議論は、たしかに「何これ?」という感じのものです。ご満悦の安部総理や委員の方々の頭の中を調べたくなってきます。ただ、これを「このての会議の無意味さ」「委員の問題認識能力の欠如」と片づけてしまってはなんの進歩もないでしょう。最大の問題は「一方的に与えられることに慣れすぎた国民」の未熟さにあるのですから。 「授業時間の増加」「いじめ学生の出席停止」等々、すべては対症療法です。対症療法は多くの場合「臭いものに蓋」に終わり、よくても現状維持を可能にするのが関の山です。ですが、国民の関心が「いまあるシステムの個別具体的な問題点」に集中している限りは、対症療法以外に何が出来るでしょう? より根元的な問題に目を向けようとしても、なんの評価もされません。その議論は一般論とならざるを得ず、個別の点に目を向けている人にとっては関心の対象外となってしまいます。つまり、こうした会議を真に意義あるものにするためには、国民レベルの議論によって「アジェンダ・セッティング」がなされていることが不可欠だと言うことです。むろん、「こうしろ」という結論を出す必要はありません。「どんな問題について有識者が結論を出すべきか」という意識を国民がある程度共有していることが必要だということです。あちこちのフォーラムでこういう議論がおこり、それを当局にぶつけ、そこでの議論の行く末を見守ることで、初めてこのての会議と国民の距離が縮まります。 国民主権というのは、「国民がふんぞり返って与えてもらう」ことを意味するのではありません。「国民が主体となって国の行く末を考え、動かしていく」ことを意味します。与えられた枠組みに文句をつけているだけでは主権の行使とはとても言えませんし、根元的な問題に関する議論をアジェンダとして与えられてない以上、当局側も唯一の国民との共有事項として「個別の問題への対応」を優先させざるを得ないのです。中身の薄い議論にしているのは、国民自身の責任でもあることを認識する必要があります。 まったく別のこのふたつの問題、根っこには日本人の未熟さが横たわっています。他者のふりを見、誤りを指摘し、そしてほんの少しだけ我が身を振り返る。そうして少しずつ前に進んでいきたいものです。 #
by ka-takeuchi
| 2007-01-25 11:33
| 教育
<番組ねつ造>関テレがおわび 「あるある大事典2」は休み 関西テレビは21日午後9時からの「あるある大事典2」を休み、1時間前倒しした生情報番組の冒頭で視聴者へのおわびの放送をした。 全然ダメです。 「あるある2」を放送休止にしてスタメンを前倒し延長、その放送直前に お詫びの放送、ということで、いちおうフジテレビにも問題意識はある かな、と、少しでも期待した自分がバカでした。 お詫びは関テレのアナウンサーから。キー局のフジテレビはその後 ただちにスタメンに入り、そのまんま東当選と国会議員たたきで 1時間をつぶします。スタメンが本来の放送時間に入って半ば頃、ようやく 普通のニュースのような形でこの件に触れて、その後申し訳程度のコメント のやりとりをして終わり。そのコメントも、コメンテーターが比較的まとも なコメントをしているところを爆笑問題太田が遮っては意味不明なコメント (一見まともそうで、実は結論のないコメント、ということ)。 前日に起きた事件で休止になった番組の枠にスタメンのような番組を 入れるなら、少なくともその時間帯はこの件を扱うのがスジでしょうに、 渡りに船のそのまんま東当選を大々的に報じて時間をつぶし、そのあとは 自分に対する批判をそらすかのように他者の批判。少なくともこの瞬間、 フジテレビ系列は自己批判なしに誰かの批判をする資格はなかったはずです。 今朝は朝ワイドショーのメニューラインアップに、フジはこの件の影も形も なし。小倉氏は番組の冒頭コメントで、熱をこめて卓球の水谷君を礼賛して ましたが、事件発覚後最初の放送なんだから、正面からこれに触れるのが 当然でしょう。他の局も、少なくとも7時半から8時までに触れていた所はなし。 フジは完全にこの件を関テレに押しつけるつもりに見えます。キー局 であり、この番組を放送した当事者でもあるというのに。関テレが 作った番組を放送しただけだから自分は第三者、というのであれば、 社外の制作会社が作った番組だから、放送したテレビ局は道義的責任を 少し感じればよい、と関テレが言っても許されてしまいます。 また、スタメンのコメンテーターが言ったまともなコメントとして、 「この件を正面から批判できる放送局はないと思う」というのがあり ましたが、今朝までの動きを見る限り、それが裏書きされてます。 勘弁してください。上から言われた視聴率を達成するためにねつ造する のと、上から言われた検挙率を達成するために警察が自白を強要するのと、 本質的にどこが違いますか。 キー局は系列局と完全に対等ですか? あるある2の方向性について、 一切フジはあずかり知らないんでしょうか? あずかり知らないとしたら、 内容についてまったく検証してない番組を流してる? どっちに転んでも 問題大ありです。 フジテレビがキー局として音頭をとり、他局にも呼びかけて再発防止のため の方策を考える。そこには多くの他業界の人間を入れる。普段この業界の 人たちが偉そうに言っていることを思い起こせば、これぐらいのことは当然 だと思えるでしょうし、難しくもないですよね。 なお、納豆業者の方々、お気の毒です。ただ、この件は風評被害とは 違いますし、バカうれになったのがもとに戻った、ということですので、 そのまえに「根拠のないままもうけた」という部分と相殺するしかないでしょう。 もちろん、流れに乗り損ねてもうけておらず、損だけした方々もおられる でしょうが、それは経済界の至る所にある構図です。ことさらに 同情申し上げる気にはなりません。 #
by ka-takeuchi
| 2007-01-22 10:28
| 社会(マスメディア)
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